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東京地方裁判所 昭和36年(行)3号 判決

判   決

原告

中矢文子

右訴訟代理人弁護士

岡井藤志郎

被告厚生大臣

厚生大臣

西村英一

右指定代理人検事

家弓吉已

同法務事務官

鈴木智旦

同厚生事務官

松田政一

高峯一世

右当事者間の昭和三六年(行)第三号遺族年金及び弔慰金支給請求事件について、当裁判所は、次のとおり判決する。

主文

被告が、昭和三五年七月一五日付厚生省発援第六三号をもつて、戦傷病者戦没者遺族等援護法に基づく原告の不服申立を棄却した裁決を取り消す。

被告は、原告に対し、戦没者野中大吉にかかる遺族年金及び弔慰金を受ける権利を有する旨の裁定をしなければならない。

訴訟費用は、被告の負担とする。

事実

第一、当事者双方の申立

一、原告は主文同旨の判決を求めた。

二、被告は、主文第一項の請求については請求棄却の判決を求め、同第二項の請求にかかる訴については、まず本案前の申立として訴却下の判決を求め、次に本案につき請求棄却の判決を求めた。

第二、原告の請求原因

一、原告は、昭和一四年一二月現役陸軍中尉野中大吉と結婚し、昭和一五年六月二九日婚姻の届出をしたが、大吉は、昭和二〇年六月二〇日比島レイテ島で戦死した。

二、原告は、昭和二九年二月二六日付請求書をもつて、被告に対し、戦没者野中大吉にかかる戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下単に法という。)に基づく遺族年金及び弔慰金の請求をしたところ、昭和三〇年六月二二日付をもつて請求を却下されたので、同年八月一日付をもつて被告に不服の申立をしたが、被告は、昭和三五年七月一五日付厚生省発援第六三号をもつて、原告が戦没者野中大吉の死亡後昭和二七年三月三一日までの間に、訴外北井通俊と事実上婚姻と同様の事情に入つたものと認められるから、法第二九条第二号、第三一条第五号、第三六条第一項第一号により遺族年金及び弔慰金の受給権を有しない、との理由で、原告の不服申立を棄却した。

三、しかし、原告は北井通俊と事実上婚姻と同様の事情に入つたことはなく、戦没者野中大吉にかかる遺族年金及び弔慰金の支給を受ける構利があるから、この権利を否定した被告の裁決は違法である。

よつて、申立のとおり判決を求める。

第三、請求原因に対する答弁と被告の主張

一、請求原因に対する答弁

請求原因第一、二項記載の事実は認めるが、同第三項は争う。

二、被告の主張

被告が、原告は戦没者野中大吉死亡後昭和二七年三月三一日までの間に事実上婚姻関係と同様の事情に入つたものと認めたのは、次の事実に基づくものである。

すなわち、原告は、昭和二二年一二月一三日自己の希望によつて戦没者野中大吉と原告との間の長女野中芳子の養育監護を戦没者の母野中ウルに託したまま、婚家より当時の貸幣価値としては相当多額である現金一万円をもらつて自己の実家(愛媛県伊予郡松前町大字浜三〇九番地)の実母中矢シヅヨのもとに帰つたものであつて、その後間もなくして、当時夫婦仲の円満を欠き茨城県下の実家に帰つた妻子と別居中で事実上離婚と同様の状態にあつた北井通俊と昭和二三年一月頃から同棲するに至り、愛媛県伊予郡松前町大字浜四三三番地の一の北井の住家において同人と同年八月頃まで同棲生活を続けたものであること、そして原告は、昭和二四年四月一七日に北井との間に第一子一夫を分娩し、その間原告は北井の家屋に引き続き居住していたこと、さらに、原告は同年六月二日戦没者の戸籍より実家に復籍したこと、北井は一夫を同年七月一八日に認知していること、さらに、原告は、その後も北井と度々情交を重ね昭和二五年一二月一六日に北井との間の第二子通明を分娩するに及んだこと、なおまた、原告は、婚家を出てから後は戦没者との間の長女芳子を全く顧みず何ら養育監護していないことなどである。

被告は、以上の各事実を総合判断して、原告は北井通俊との間に法第二九条第二号、第三一条第五号及び第三六条第一項第一号にいう「戦没者死亡後昭和二七年三月三一日までの間に事実上婚姻関係と同様の事情に入つたもの」に該当すると認定し、右法条によつて、原告は、戦没者野中大吉にかかる遺族年金、弔慰金の受給権を有するものではないとして、原告の不服申立を棄却したのであつて、被告のこの裁決は適法である。

第四、被告の主張に対する原告の答弁

一、被告主張の事実の中、原告が昭和二二年一二月一三日大吉との間の長女芳子を婚家に残し、婚家から金一万円をもらつて実母中矢シヅヨのもとに帰つたこと、原告と北井通俊との間に被告主張の二子があり、一夫を北井が認知していることは認めるが、その余の事実は否認する。

原告が婚家を出て、北井との間に二子をもおけるに至つた経緯は、次のとおりである。

原告は、夫野中大吉戦死後も婚家にあつて長女芳子を養育するつもりであつたが、大吉の戦死公報が入ると大吉の兄野吉好春と母野中ウルとは、原告に芳子を置いて実家に帰るよう強要するようになり、そのため好春から暴行を受けるようなこともあつて、やむを得ず原告は、昭和二二年一二月一三日現金一万円をもらつて、実母中矢シヅヨのもとにかえつた。しかし、原告の実家は、父を昭和一九年に病で失い、実兄も昭和二〇年に戦死して、当時老母シヅヨと亡兄の遺家族だけという年寄りと女子供の世帯で、野中家からもらつた金一万円も当時の「闇買い」生活のためたちまち費消し、原告は裁縫の賃仕事で細々と生活を立てることになつた。そうしたとき、昭和二三年三月頃北井通俊から原告に下女に来て欲しいとの申出があつたので、生活の必要から「闇商人」として評判の悪かつた北井の下女となることにした。北井は、もともと妻の実家の茨城県に居たのが、疎開で郷里へ来ていたもので、当時妻が幼児を連れて一足先に茨城県に復帰し、北井は学校へ行く子供と共に居残つていたため、女中を必要としたのである。原告は、北井の下女となつてからも、寝食は近くの自宅で行い、ただ北井が茨城県の妻子のものに往来する留守中だけ、残つた北井の長女礼子の面倒を見るために、北井の家に寝泊りしたにすぎない。そのうち、昭和二三年四月二〇日頃茨城県から帰つて来たばかりの北井は、昼間裁縫中の原告にいきなり襲いかかつて原告を犯し、その後一五日ばかりの間にこのようなことが三回あり、同年五月一〇日頃北井は再び茨城県へおもむいたが、六月末に帰来してまたも原告を犯し、同年七月初北井は茨城県の妻のもとに引きあげて、原告の女中奉公も終つた。同年八月になつて原告は姙娠したことを知り、茨城県の北井に一五回も葉書で中絶費用を送金するよう求めたが一回の返事もなく、昭和二四年四月一七日一夫を生み落すに至つた。一夫出生後原告は実家の倉庫の二階に寝起し、昼は一夫を背負つて魚行商をして自活していたが、同年六月末頃北井が実兄との家屋所有権の争いで帰つて来たので、原告は北井に求めて一夫を認知させたが、その外には、北井は経済的にも精神的にも原告文子に何らの援助もしなかつた。ところが、昭和二五年一月頃の夜、突然北井は原告宅にやつて来て原告を犯し、このようなことが二回あつたが、一度は北井の暴行によつて原告が失神するようなこともあつた。かくて、原告は通明を姙娠したが、北井は中絶費用を要求する原告を逃れて、茨城県に行つてしまつた。原告は、通明出生後も通明を背負い、一夫の手を引いて魚行商をしたが、過重労働にたえられないので「闇煙草」を扱つたところ、昭和二六年一二月一四日と昭和三〇年三月二八日の二度罰金刑を科せられた。そんなこともあつて、原告は、松山家庭裁判所昭和二八年(家イ)第九九、一〇〇号認知並びに養育料請求家事調停事件をもつて、北井を相手に通明の認知と二人の子供の養育科を請求したが、北井は、原告は単なる娼婦だつたと罵つてこれに応ぜず、漸く昭和二八年六月三〇日通明の認知と養育料の請求をしないことを条件として、一夫に対する同年七月から一二月まで毎月金一、〇〇〇円、合計金六、〇〇〇の養育料支払いのみを承諾したが、その支払いも完全にはしていない。

二、以上の事実よりして、原告が北井通俊と事実上婚姻関係と同様の事情に入つたものでないことは、明らかである。すなわち、

1、事実婚とは、民法所定の実質的な婚姻の要件を備え、ただ形式的に戸籍事務管掌者に対する届出を欠くものと解すべきところ、北井には妻十九があるのであり、しかも北井は妻との間に、一夫出生後一箇月余にして、昭和二四年六月一日に五女ゆかりをもおけているのである。

2、仮りに、右に述べた埋が認められないとしても、事実上の婚姻関係にあるというには、婚姻の意思(内縁夫婦関係締結の意思)と同棲及び扶助の事実が不可欠の要件というべきところ、前記のところから明らかなように、原告は北井から暴力をもつて犯された被害者にすぎず、右の要件のいずれをも欠くものである。

三、仮りに、原告主張の事実が認められなければ、予備的に次のとおり主張する。

法第三一条第五号は、「事実上婚姻関係と同様の事情に入つていると認められる場合」と規定しているから、文言上明らかなとおり、事実上の婚姻関係は、権利消滅宣言の現在においてなければならず、過去にそのような事実があつたとしても、現在になければ、右法条によつて遺族年金、弔慰金の受給権を否定することは許されない。しかるに、原告と北井との関係は、すでに十数年前になくなつているのであるから、この事実をもつて、原告の受給権を否定したのは違法である。

第五、証拠関係≪省略≫

理由

原告が昭和一四年一二月現役陸軍中尉野中大吉と結婚し、昭和一五年六月二九日婚姻の届出をしたこと、大吉が昭和二〇年六月二〇日比島レイテ島で戦死したこと、その他原告が請求原因の二で主張する事実は、すべて当事者間に争いのないところである。

争点は、被告が主張するように、原告が北井通俊と野中大吉死亡後昭和二七年三月三一日までの間に事実上婚姻関係と同様の事情に入り、法第二九条第二号、第三一条第五号及び第三六条第一項第一号によつて、遺族年金と弔慰金の受給権を有しないこととなるかどうかにある。

そこでまず右法案の趣旨を考察するに、法が配偶者を第一順位として戦没者の遺族に対し遺族年金と弔慰金を支給することを定めるとともに、配偶者が昭和二七年三月三一日までに婚姻したときは遺族年金と弔慰金を支給しないこととしたのは、戦没者が死亡しなかつたとすれば、享受し得たであろう経済上の利益の喪失と戦没者の死亡に伴う精神的な苦痛については、まず第一にその配偶者に対しこれを補償し慰藉することとし、他方残存配偶者が新たに婚姻し、新しい生活に入つている場合には、一応経済的にも精神的にも安定をとり戻しているものとして、これに対しては遺族年金と弔慰金の支給はしないこととしたものと解するのが相当である。従つて法文上婚姻と同視されている「事実上婚姻関係と同様の事情に入つていると認められる場合」とは残存配偶者が死亡した旧配偶者とのつながりによつて形成された従来の生活関係から脱して、新たな当事者との間で、新たな経済的、精神的安定のよりどころとなるべき共同生活(単なる同居ではなく、経済的、精神的肉体的に事実上の夫婦とみられるような共同生活、以下共同生活の用語をこの意味に使用する。)に入つていると認められる場合を指すものと解するのが相当である。この見地からすれば「事実上婚姻関係と同様の事情に入つていると認められる場合」というたのには少くとも次の二つの要件が充足されていることが必要であると解される。すなわち、第一に、当事者間に共同生活を維持継続する意思の合致が必要であり、第二に、共同生活が相当の期間安定して継続されていることが必要である。そうして、以上の要件を充足している限り、原告主張のように、民法の定める婚姻の実質的要件を完全に備えていることは必ずしも必要でなく、例えば当事者の一方に戸籍上配偶者があつても、その者との関係が事実上ながく離婚状態にあるような場合や民法の近親婚の禁止に触れるような場合であつても、なお本法の適用上、事実上の婚姻と認めることの妨けとなるものではないと解すべきである。

そこで、以上の見地から原告と北井通俊との関係が「事家上婚姻関係と同様の事情に入つていると認められる場合」に当るかどうかを検討することにする。

原告が昭和二二年一二月一三日大吉との間の長女芳子を婚家に残し、婚家から金一万円をもらつて実母中矢シヅヨのもとに帰つたこと、原告が北井との間に、昭和二四年四月一七日生れの一夫と昭和二五年一二月一六日生れの通明の二子をもおけ、一夫は北井の認知を得ていることは当事者間に争いのないところであり、証人北井通俊の証言及び原告本人尋問の結果等によれば、北井は当時妻との仲が円満でなく茨城県下の実家に帰つていた妻と別居し、原告の実家の近所にあたる松前町の住家に居住し行商に従事していたこと、原告が昭和二三年一月頃から北井方で女中勤めをすることとなつたところから原告と北井との前に情交関係を生じ、原告が同年七月頃までの間に、常時ではないとしても、或る程度北井の家で寝とまりした事実があり、一夫の分娩もこの家で行われたこと、原告は婚家を去つた後大吉の墓まいりをしたこともなく、長女芳子の養育監護には無関心であつたこと、等の事実を認めることができる(原告本人の供述中一部右認定に反する部分があるが、この部分は信用できない。)以上のような事実関係は、一応、原告と北井とが事実上夫婦とみられるような関係に入つていたのではないかとの疑をいだかせるに足りるものであることは否定しないところであろう。

しかし、もつとも肝心な点は、原告と北井とが事実上夫婦とみられるような共同生活をする意思の合致の下に、相当の期間継続して、安定した共同生活を営んでいたかどうかであり、この点が認められないかぎり、前認定のような事実関係ではなお「事実上婚姻関係と同様の事情」にあつたと認めることは困難であり、北井との間に初めの子ばかりか、かさねて二子までももうけた事実にしても、かような安定した共同生活の裏付けがないかぎり、この点に関する被告の主張を認める決め手となるものでものではないと解すべきところ、本件に現われた全証拠を検討しても、なお原告と北井とが共同生活をする意思のもとに共同生活を継続していたとの心証を得ることのできないことは以下に詳説するとおりである。すなわち、甲第一号証の中原告と北井との関係に関する部分は、証人相田肇の証言によれば、原告が北井に対し通明の認知と一夫、通明両名の扶養料を求めた調停事件の申立書に基づいて同証人が記載したものであり、この申立書が原告によつて記載されたものかどうかは明らかでなく、また北井との関係について右申立書に詳細な記載はなかつたというのであるから、甲第一号証は、原告と北井との生活関係の実態や本人同志の意思の点を確認する証拠としては不十分なものである。また、乙第二号証は、証人相田の証言によれば、もつぱら甲第一号証に基づいて判断されたものと認められるので、甲第一号証同様不十分なものである。乙第五号証の一には、原告と北井とが同棲していた旨の記載があるが、その生活状態については詳細な説明がないばかりか、同時に北井には原告と連れ添う意思はもうなかつたもので、かつ同棲期間中の経済的関係は原告と北井とが「相互において負担していた」との記載もあつて、これまた事実上の婚姻関係にあつたことを証するに足りるものとは認められない。乙第一六号証の二(乙第一八号証の六乙第一一号証の七)には原告と北井とが事実上婚姻関係を結んでいたことを証明する旨の記載があるが、乙第五号証の五によれば、この証明書は単に戸籍書類に一夫ら二子の出生届があるという事実のみによつて認定した事実を記載したものに過ぎないというのであるからその実質的な証明力は著しくとぼしいものというべきである。また、乙第二一号証の六にも原告が遺族以外の者と婚姻した旨の記載があるが、この書面にも証人野中好春、同池田義の証言によれば大吉の兄に当り遺族年金及び弔慰金の受給について原告と反対の立場にあつた野中証人の依頼により、原告が松前町の実家に帰つた後の生活状況を十分知るはずのない荏原村役場吏員が作成したものと認められるのでこれまた被告主張を証するに足らない。次に人証について見てみるに、証人平岡国雄の証言は、同証人が直接原告と北井の関係を認識した事実を述べるのではなく、後に同証人がこの関係を調べた結果を述べるに止まるのであり、しかも、それによつても原告と北井との関係が女中と主人の関係であるか事実上の夫婦の関係であるか断定しがたいような状況であり同証人が北井自身に聞いたところでは、北井は原告を妻として連れそう意思はなかつたというのであるからこの証言は原告と北井が事実上の婚姻関係にあつたとの被告主張を証するに足りるものとは認められない。証人野中好春、同池田義一のこの点の証言は、いずれも伝聞に基づくもので、しかも単なる風評によるものと認められるから、直ちには採用できない。また、証人相田肇の証言も、原告と北井との関係については、主として原告の北井に対する前記認知等請求調停事件の申立書に基づく判断を述べているものとは認められないから、これによつて被吉主張を認めることはできない。従つて、以上に検討した事実関係や証拠だけでは原告と北井とが、共同生活を継続する意思のもとに共同生活をしたとの事実を認定することは困難であり、その他本件に現われた全証拠を吟味してみても、右事実を認めることはできない。

かえつて、次における各証拠及び、これらの証拠により認められる事実関係によれば、原告と北井との関係は、なお、事実上の婚姻関係というには値しないものであつたと認められる。

すなわち

(一)  証人北井通俊、同北井文子、同中矢シヅヨの各証言及び原告本人尋問の結果によれば、原告ば前認定のように昭和二三年一月頃から北井の住家で女中勤めをすることとなり、この女中勤めは、北井が同年七月頃、当時茨城県下に別居中であつた妻のもとに引きあげるまで続いたこと、その間原告と北井との間に情交関係を生じ初めの子一夫を懐姙するに至り、原告が北井方で或る程度寝とまりした事実のあつたことは否定し得ないこと、しかし、もともと、原告の女中として主な仕事は行商人として不在がちの北井の留守を守り学校を通学中であつた北井の長女らの世話をすることになつたのみならず、原告と北井の家とが近所であつたことや、原告の実家に対する手前や世間体をはばかる必要があつたこと等の事情から、原告が北井の家に常時住み込んで同棲しているという状況ではなかつたこと、北井とその妻との当時の関係は一時的別居の程度で事実上の離婚というまでには至らず、昭和二三年七月頃北井が妻のもとに引きあげるまでの間にも何度か妻のもとを訪れていること。原告は長男一夫を、北井が茨城県下に引き上げて不在となつていた北井の家で分娩したものであるが、その間の家賃代りに北井の家屋税を代払いしていること、原告が北井との間に二番目の子を懐姙する原因となつた情交は、北井が妻のもとに引きあげてから後、たまたま昭和二五年二、三月頃北井が原告の実家に原告を訪れた際に行われたものであること、以上のような事実関係を認めることができる。かような事実関係から判断すれば、原告と北井との間には、事実上の夫婦関係とみられる程度の安定した継続的な同棲関係はなかつたと認めるのが相当であり、このことは証人北井文子、同金子義明、同中田好一、同向井要らが、いずれも、隣り近所の者はもとより、北井と同一棟の建物内に居住していた北井の姉北井文子らも、原告と北井とがいわゆる内縁の夫婦関係にあるものとは認めていなかつた旨の証言をしていることによつても裏付けられるところである。

(二)  他面、以上(一)に認定した事実関係に、証人北井通俊がその証言中において、原告本人がその供述中において、それぞれ、夫婦として連れ添う意思はなかつた旨の陳述をしていること、右証言及び本人の供述によつて認めることができる次の事実、すなわち北井は原告との情交の度に物品を原告に与えていること、成立に争いのない乙第四号証の八により認められる次の事実、すなわち北井の妻十九は、原告が一夫を分娩してから二箇月を経ない昭和二四年六月一日に北井の子供を茨城県で分娩し、その出生届は北井が自ら行つていること及び成立に争いのない乙第一七号証の三によつて認められる次の事実、すなわち原告が北井を相手方として申し立てた通明の認知と一夫、通明の養育料の請求にかかる調停事件において、北井は一夫に対し養育料として昭和二八年七月から同年一二月まで一箇月金一〇〇〇円の割合による金員を支払い、これに対し、原告は通明の認知請求と養育料の請求を取り下げる趣旨の調停が成立している事実などを合せて考察すると、原告と北井との間には婚姻同様の共同生活をする意思もなかつたものと認めざるを得ない。

以上(一)(二)の認定を総合して判断すれば、原告と北井との関係は、主観的な意思の面からいつても、客観的な事実関係の面からみても、法にいう「事実上婚姻関係と同様の事情に入つている」場合に当らないものと認めるのが相当である。もつとも両人の関係が事実上の夫婦関係と或る程度まぎらわしいものであつたことは否定し得ないところであり、このことが、原告が婚家を去つた後大吉の墓まいりしなかつたことや、長女芳子の養育監護に無関心であつたこと等と相いまつて旧婚家元の人々や同町内の人々から悪評を受ける原因となつたことは容易に推測し得るところであり、この点から原告が遺族年金の受給資格の認定につき不利な取扱いを受けるに至つたのは、原告自身にも一半の責任があるとも解されるのであるが、原告が夫に死別し、婚家を去つてインフレ下の困難な状況の下で、何らの資産もなく女手一つで生活を支えなければならなかつた事情(この事実は原告の本人の供述等によつて認めることができる。)を考慮すれば、原告が婚家を去つた後の生活態度や行跡に対しいたずらに厳し過ぎる態度をもつて臨むことは、法の精神にそうものと思われず、(そもそも、法が事実上の婚姻関係を正規の婚姻と同規して遺族年金等を受給資格の欠格事由とした趣旨が、初めに説明した点にある以上、原告と北井との間に、事実上の夫婦というにふさわしい、安定した、継続的な共同生活が営まれていたことが確認されないかぎり単にまぎらわしい関係や道徳上非難さるべき行跡があつたということだけで、直ちに原告の遺族年金等の受給資格を否定することは、法の趣旨に戻るものといわねばならない。

してみると、原告に他に遺族年金及び弔慰金の受給資格についての欠格事由ないし受給権の喪失等があることについて、何らの主張立証のない本件においては、原告は戦没者野中大吉にかかる遺族年金及び弔慰金の支給を受ける権利があることは明らかである。従つて、この権利を否定した被告の昭和三五年七月一五日付裁決は違法であつて、取消しを免れないものである。そして、取消の結果、被告が原告の申請に対して、あらためて、遺族年金及び弔慰金を受ける権利を有する旨の裁定をすべき義務があることも明らかである。従つて、原告の本訴請求は、すべて理由があるものといわねばならない。

なお、被告は、右義務の宣言にかかる訴を不適法として、その却下を求めているが、およそ、法令に基づく申請に対する行政庁の拒否処分が違法として取り消さるべき場合に、取消の結果、申請に対し、行政庁があらためてなすべき行為の内容を一義的に確定することが不可能であつて、この点につきあらためて行政庁の裁量、判断を経ることが必要である場合は格別、本件のように、拒否処分の違法が行政庁に一定の作為義務があるにかかわらず行政庁がこの義務を履行しないことに基づくものであり従つて拒否処分が取り消された結果、申請に対し行政庁のなすべき行為の一義的に明白であるという場合には、取消しの結果いかなる行為がなさるべきかの点について、あらためて行政庁の判断を経る必要性も合理性もないことは明らかであるから、かような場合には、裁判所は、行政庁の第一次的判断をまつまでもなく、ただちに、行政庁に一定の作為義務がある旨を判断し得るものといわねばならない。そして、かような場合に裁判所が、法の適用による判断作用の結果として、行政庁に一定の行為をなすべき義務があることを判断することが許され、しかも、この判断の結果に行政庁が拘束されるものと解する以上、行政庁に、一定の作為義務がある旨を判決理由中に判示し得るのはもとより、主文においてその旨を宣言し得ることも当然であり、主文に宣言されたところに従つて行政庁が一定の行政行為をしなければならないこととなつても、それは、ひつきよう、行政作用の適否が裁判所の判断に服すべきことの当然の結果にほかならず、これをもつて、裁判所が行政行為をしたのと同じ結果になるというのはあたらないものというべきである。そして、さらに、行政庁に一定の作為義務がある旨を判決主文に表現する方式として、行政庁に一定の作為を命ずる形式がとられたとしても、この給付命令が、行政庁に一定の作為義務があることの判断に基づき、この判断の結果を実現すべきことを要求する意思表示であるかぎりにおいて、判断作用と無関連な、単純な監督命令とはその性質を異にするものであることは明らかであるから、主文の表現方式が給付命令の形式をとつたということだけで、ただちに、裁判所が行政庁に対し行政監督権を行使した結果となるというのはあたらないのみならず、行政庁がこの命令に拘束されて一定の行為をしなければならないこととなつても、その実質は、行政作用が法の適用に関する裁判所の判断作用に服する結果となるに過ぎないから、これをもつて、裁判所が行政行為をしたのと同じ結果になるというのもあたらないものと解すべきである。しかも現行法制の下では、かような給付判決につき強制執行の方法は用意されていないので、主文の表現が確認の形式をとるか給付の形式をとるかによつて、判決の実質的効力は異ならず、従つて、現行制度の下では、いずれの方式をとるかは便宜の問題に過ぎず、確認の方式をとることが表現形式として妥当であるとして、それは、ひつきよう、司法権の行政権に対する用語上の礼譲の問題に過ぎないというべきである。従つて、右義務の宣言にかかる訴を不適法と解すべき理由はなく、この点に関する被告の申立は採用のかぎりでない。

よつて、原告の本訴請求をすべて認容することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟第八十九条を適用して主文のとおり判決する。

東京地方裁判所民事第三部

裁判長裁判官 白 石 健 三

裁判官 浜   秀 和

裁判官 町 田   顕

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